マサダ国立公園:ユダヤ教徒離散の始まり
旅の途中で死海に浮くツアーに参加したことは他の記事でも述べた。
そのツアーでは、一緒にマサダにも訪問することになっていた。
マサダはヨルダン川西岸のパレスチナ自治区のすぐ南にある。死海のビーチも近い。
マサダはヘブライ語で「要塞」という意味だそうで、死海のほとりにそびえ立つ岩の要塞をそう呼ぶ。ほとりと言っても砂漠で緑はほとんど見えない。
日本では馴染みがないが、この要塞は約2000年前、ユダヤ戦争でユダヤ教徒がローマ軍と最後まで戦った場所だ。この戦いで負けて以降、ユダヤ教徒は世界中に離散することになった。
私にとって「マサダ+死海ツアー 1日コース」のハイライトは死海であった。
死海に浮くこと、そしてインスタ映えする写真を撮ることがツアーの最も重要な目的であり、マサダは『地球の歩き方』を読んで「ふーん」と思う程度の興味しかなかった。
しかし、行ってみて遺跡の壮大さに圧倒されてしまった。
説明によると、遺跡は長さ650m、幅300m。死海から450mの高さにある。
上面が平たい巨大な岩をくり抜いて、人が住めるようにしていた。
今はふもとからケーブルカーで上ると、要塞の中を歩いて見学できる。
マサダの模型。上側が要塞。
ケーブルカーで一気に要塞へ。
マサダは要塞といいながら、宮殿や居住スペースなど、様々な施設が設けられている。
また、要塞の岩壁には雨どいのように雨水を流す細い水路を設け、雨水を貯水槽に貯められるようにしてある。蒸気を使った大浴場、食物貯蔵庫、シナゴーグ(ユダヤ教徒の祈りの場)もある。
今はカラカラに乾いた大地の巨大な岩だが、ユダヤ戦争当時、籠城していた人々の生活水準は意外と高かったのではないかと感じた。
ローマ軍が攻めてきた場所。要塞の西側に当たる。
要塞に籠っていた960人のほとんどはローマの奴隷になるより自決の道を選んだ。
要塞の北側。細い道が通っている。
倉庫跡。大きさに驚く。
説明によると、トウモロコシ、ワイン、油、デーツ(なつめやし)を保管していたそうだ。
死海は昔はもっと手前まであった。
大浴場。火を起こして浴室全体を暖める。
昔のユダヤ人も仕事の後のひとっ風呂を楽しみにしていたのかも。
頂上から下を見下ろすと、ローマ軍が包囲した時のキャンプの跡をいくつか見ることができる。
いくらマサダが立派な要塞とはいえ、包囲を受けながら籠城し続けたユダヤ教徒の恐怖はどれほどのものだっただろう。それでもローマ軍には投降しなかったところに、ユダヤ教徒の意思の強さを感じる。
だが、第二次世界大戦中の沖縄と同様、最後は集団自決という悲しい結果を残した。
ツアーガイドがこてこてのユダヤ教徒だったので、見学中は彼が遺跡の素晴らしさ、ユダヤ教徒にとっての価値を熱く語ってくれた。
ツアー客には欧米諸国から来たユダヤ教徒も複数名いた。彼らにとって、マサダの訪問は聖地巡礼に当たる。
英語の現地ツアーはマサダを含むものが多かったのだが、それはこのような海外に住むユダヤ教徒のためではないかと思った。